吉野ヶ里遺跡 (2022.6.17)
福岡滞在中に、レンタカーを借りて後輩と訪れました。
車がほとんど停まっていない大きな駐車場にレンタカーを置いて見学しました。
佐賀平野に突如現れた遊戯施設っぽいかんじの建物で券を買って入場します。
ミストが吹き付ける「天の浮橋」を渡り、南内郭ー北内郭ー北墳丘墓と北へ向かって見学。
そこで力尽きて引き返しました。
同行の後輩とは、後輩も知っている私が佐賀医科大学時代の人物が、ここで発掘調査のバイトをしていたことが話題になりました。1990年前後のことだったと思います。
人類が定住するようになると、「所有する」という考えが強くなり、その所有をめぐり争いが多くなるという事実が歴史からもみて取れます。定住の利点は多々ありますが、それにより不幸をもたらすこともあり、それは現在に至るまで続いていますね。
ちなみに1994年6月24日に妻との結納のときに両親とここに訪れています。全く記憶にないですが。
【データ】
城地種類 平城 環壕集落
築城年代 弥生時代。
唐津城(2022.6.18)
後輩とともに名護屋城見学のあとに訪れました。
唐津駅から歩いて向かいます。橋を渡り、左に折れて地元のバスのたまり場みたいなところにでます。そこですでに天守がみえるという塩梅。海にかかる橋のたもとが撮影場所となっていました。
橋を渡るとお城の駐車場があり、道を渡って城に登っていくという道筋です。駐車場から城のある側に行くための地下道を見逃し、横断歩道まで遠回り。早稲田もどき高校の前を通り、石段を登っていきました。
天守からの景色は最高でした。浜辺を黙々とランニングする高校生の姿が見えました。
妻が子どもの頃、一時唐津に住んでいたらしいのですが、日曜日になると決まって父親と唐津城に登っていたといいます。ここからの下界を眺めると、仕事もストレスも吹き飛んだことでしょう。
下城したあとは、唐津の街の洒落た喫茶店にはいり、ノンアルビールを飲んで、曳山展示場に行きました。家族でおくんちを見に行ったのはついこの間とおもっていたのですが、もう8年も前のことでした。
【データ】
別名 舞鶴城
城地 海城
築城年代 慶長7年(1602)
築城者 寺沢広高
主要城主 寺沢氏-大久保氏-松平氏- 土井氏-水野氏-小笠原氏
名護屋城 (2022.6.18)
この日、後輩と福岡市営地下鉄の中洲川端から一直線に西唐津に向かいました。
地下を出たあとの車窓の風景が加速度的にのんびりしたものになっていくのを楽しんで眺めました。
西唐津に降り立ったのですが、駅前には何もなし。うまい具合にタクシーが泊まっていたので、それに飛び乗りいざ名護屋城跡へ。
名護屋大橋を渡り、左に道の駅をみて、駐車場に降り立ちました。坂を登り右側に行くと、受付の小屋があり、その先が名護屋城跡です。
大手口から東出丸ー三の丸ー本丸と登っていきました。
坂の途中にアケビと思われる木の実がたくさん落ちていました。アケビであれば食べられるのですが。だれも食べていませんでした。
標識がすべて陶器でできており、さすが焼き物の里有田・伊万里が近くにあるだけあるなあと思いました。
東出丸からの景色の説明。各大名の陣の位置が示されています。
本丸天守台からの眺めです。
このあと二の丸経由で、大手口にもどり、博物館を見学。
かつては、大都市に匹敵する賑わいをもった場所でしたが、いかんせん秀吉が無謀すぎたため、秀吉が死んだあと、各大名はとっとと撤収してしまったのだと思います。ぐずぐずしていると、大陸から目をつけられるかもしれないし。
そんなことを考えながら、バスで唐津へ向かったのでした。
ちなみに、1988.6.8 佐賀医大在学時代に、チュートリアルの仲間と「河太郎」にイカを食いに行ったあと、訪れている。しかし途中から大雨になり、「秀吉の霊がお怒りになっている」と言いつつ退散した思い出があります。
【データ】
城地種類 平山城
築城年代 天正20年(1592)
主要城主 豊臣氏
佐賀城(2022.6.17)
福岡での学会を抜け出して、後輩とレンタカーを借りて、佐賀へ高速使って移動しました。全区間、私が運転しました。
ホテルの朝食バイキングでたらふく食べたので、お昼近くでしたが先に登城してしまおうということになりました。お城近くのパーキングに車を停め、いざ登城。すでに立派な石垣が見えています。
鍋島直正像の前をお通り、なぜか城の西側の天守台の奥の方の入り口から入り、表示板の写真をとりました。
そして、天守台に続く石垣を堪能。
そして鯱の門を観ます。現在の門は、天保6年の大火災のあとに再建されたもの。門の表の上部には「佐賀の乱」で反乱軍が打った鉄砲の弾痕が残っています。
さて、その後は平成16年にできた本丸御殿に入ります。
玄関から手動の引き戸を開けてなかに入ります。なんだか
靴を飲み屋に設置していあるような靴箱に入れて、「ごめんくださ〜い」という感じ。
正面には甲冑や刀が飾ってあり、その脇でモニターがありなにか説明しています。
左奥のほうが、有名な45mの畳の北廊下。
毎日の掃除が大変そうです。
コロナ対策で、左の障子のところどころが開いており、そこから石垣が見えます。
この障子の窓は雨や台風のときはどうしているのでしょうか?
昭和62年から平成4年まで佐賀で生活していた私は、佐賀の容赦ない降雨をしっているので、
余計な心配をしてしまいます。
御所書院は閉館中。
窓から外を見ると地面には、元あった御殿屋敷の設計図が地面にかかれています。
さらなる復元建築を狙っているのでしょうか。隣からは佐賀大附属小の校内放送が流れてきます。
玄関近くで弘道館の展示があったので、大隈重信の「南北騒動」の話を聴き、一晩中喧嘩をするような感情コントロールのできない人がよくその後偉業を達成することができたなあと不思議に思いました。
最後は天守台を見学。昭和の時代まで、ここに建物が立っていたらしいです。天守と勘違いするということで撤去されたようですが。
天守台より西側土塁石垣を観ます。
天守台の入り口。
ということで、佐賀で生活しているときには一度も行かなかった佐賀城を観てきました。
その後も佐賀に行ったときよく泊まったホテルニューオータニから見えるお堀がきれいなので、一度は行こうと思っていました。行けてよかったです。
【データ】
別名 栄城、沈み城、亀甲城
城地 平城
築城年代 慶長13年(1608年) 享保11年(1726年) 天保6年(1835年)
主要城主 鍋島氏